トーマス・セドラチェク『善と悪の経済学』 - Fuwafuwa's memorandum

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トーマス・セドラチェク『善と悪の経済学』

善と悪の経済学



私に言わせてもらえれば学問は須らく規範の領域に属するものである。人間は、人間という器官を通して、物事を整理しそこに物語を与える。物語であるからにはそれは人間の規範を土台にしている。人間が人間の目を通すことでしか対象を認識できないと考えれば、人間の特定の考えが完全に客観的だと言ったり中立的と見なすことはないはずだ。それは客観にも中立にも程遠い、我を忘れた状態に私には思われる。

その昔物理学者は光を粒子か波かを特定しようとしたが、できなかった。粒子のようにふるまうこともあれば波のようにふるまうこともあった。その内光は粒子でもあって波でもあると考えられるようになりこの一連の論争は落ち着いた。光がその都度粒子になったわけでも波になったわけでもない。ただ人間が粒子のようなものと概念付けているものと波のようなものと概念付けているものの、光はそのどちらの性質も持つと、人間に可能な物語を現象に与えた。

規範的なものの重要さは時々によって異なるだろう。だが経済学は中でも群を抜いて規範的な学問のひとつであるはずだ。経済自体が人工的なシステムであるし、関連する法制度が複雑に入り組んでいるし、何より経済学者にはいつも未来を予測されることが期待されている。経済学では事実を列挙するだけでは足りず、我々はどうふるまうべきか、市場はどうあるべきかという規範が問われなければならない。

ところが本物の経済学の多くは、現実の市場どころか自分の組み立てた数理モデルが市場に即しているかどうかにすら興味がない、とまでトーマス・セドラチェクは指摘する。セドラチェクの批判の対象は、未来どころか過去のこともよくわからずモデルが噛み合わなくても修正もしない個々の経済学者“ではなく”、数学に傾倒しすぎて現実を顧みることを滅多にしなくなってしまった経済学という学問全体である。

経済学は長い間おそらく客観的な学問であろうとし続けてきた。しかし現代経済学の根幹をなすエコンという考え方、人間を自己の利益追求のために経済活動を行う冷静な計算者と見なす考え方そのものが、一つの規範であって充分立派な道徳律であるということにはまるで頓着しない。そして近代経済学を支配してきた「神の見えざる手」ーー個々人が自己の最大利益を追求する時全体も最適化されるという思想の盤石そのものが、実は貧弱であるということをセドラチェクはマンデヴィルやアダム・スミスを索きながら熱弁する。

セドラチェクは経済学を、人間に対する解釈と社会における規範の学問として蘇らせようとする。我々は誰かを突き止めようとギルガメシュ叙述詩や聖書に引用を求めるところなども優れて独自性が高く面白い。何せ経済学において道徳を議論した学者が近代ではあまりいないため、セドラチェクの用事はほとんど自分で新しく学問領域を樹立するということになるのだ。

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