石田勇治『20世紀ドイツ史 (ドイツ現代史)』 - Fuwafuwa's memorandum

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石田勇治『20世紀ドイツ史 (ドイツ現代史)』

20世紀ドイツ史 (ドイツ現代史)20世紀ドイツ史 (ドイツ現代史)
石田 勇治

白水社 2005-07-25
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ライヒという言葉にはシュタート(国家)という政治的な響きとは異なり、宗教的で荘厳な響きがあると言います。「ザクセン王国オットー一世のローマでの戴冠を起源とする神聖ローマ帝国がライヒを称したのは、この国が現世的な秩序だけでなく、キリスト教的な意味での来世をも内包すると考えられたからである」

ライヒの理念は、その国家という枠組みが崩壊した後にも、ドイツ人の国家観に影響し続けました。ドイツはその後百年間で、君主制、共和制、ファシズムと著しい変貌を遂げましたが、それでもなおドイツ人にとってドイツはライヒでした。

この時期ドイツではテンニースのゲゼルシャフトとゲマインシャフト、ユングによる集合的無意識など、様々に知的に刺激的な議論が交わされています。ゲゼルシャフトとゲマインシャフトは、都市化し共同体としての有機的な繋がりが失われつつあることへの焦燥です。共同体の中に意識的繋がりが存在するという集合的無意識は、今となっては非常に突飛な議論ですが、ユングは活動的な青年保守派の一人であったことに注目すれば、この一連の議論が我々現代日本人に理解できるより遥かに大きな問いであったことがわかります。

ユングによれば、ドイツは永らくヨーロッパの中心にあってその文化や精神の担い手であったのが、ヴェルサイユ体制はこれを転落させ、戦勝国によってここに自由主義思想をもたらし、これらが種々の国家や民族の間で紛争を巻き起こしているということです。民族自決は一見公平ですが、その実多数派による暴力を伴うものであり、真に守るべきなのは諸民族の有機的な繋がりであると言うのです。

ヒトラーによるユダヤ人政策の初期は、ユダヤ民族と劣等人種の移送に関わるものでした。ドイツ人は自国内のユダヤ人を積極的に東欧に排除する一方で、かつて非ドイツ人が住んでいた場所に在外ドイツ人の呼び戻すための政策をとりました。

この時期、世界的にも民族自決は国家の政策を動かす深刻な問題であり、ドイツ以外の国においても似たような政策がとられています。特に有名なのはギリシャとトルコにおける住民の交換政策であり、トルコにおけるギリシャ正教とギリシャにおけるイスラム教徒が交換されました。日本でも1950年代から1980年代において、北朝鮮への帰還事業が声高に宣伝されていました。

こうした運動はドイツによって抑圧されたユダヤ共同体においても起こっていました。1890年代にオーストリアのビルンバウムによって提唱されたシオニズムは、やがて聖都エルサレムにユダヤ人の国を作るという大きな運動となり、後に1948年のイスラエルの建国まで続きます。

民族の移送という活動自体はユダヤ人共同体の意向とも一致するものであり、第二次世界大戦後には著名なシオニストであるハンナ・アーレントが、ナチとユダヤ共同体との癒着を指摘し、ユダヤ人による協力がなければ戦中の殺戮は遥かに少なく済んだだろうとまで発言したために大変な論争となりました。

ヒトラーによる移送の政策は、移送するための土地を見つけられなかったために強制収容へと発展します。しかし収容したユダヤ人の生命活動を維持するための食べ物が調達できないとして、最終的にはガス殺という最悪な政策へと至ります。しかし当時一部の認識では、餓死でも病死でもないガス殺は「安楽なもの」とされていたことも、現代からは到底想像もつかないことです。

石田勇治による「20世紀ドイツ史」の最後では、共に枢軸国として共鳴し、敗戦国となったドイツと日本の、戦後対応の差について述べられています。

戦後ドイツでは、復興は数多くの遺恨が存在する、近隣諸国との関わりの中にありました。実際には戦後ドイツで指導の立場にあったのはかつてのナチであったそうでしたが、政治的な必要性からナチの行いを反省し、他国に謝罪しました。そして国内では徹底的な反戦教育を長年行い、そのため現代では国民の間に、過去を反省し異民族を尊重しようという風潮があると言います。

他方日本では、その復興と指導を担ったのは殆どがアメリカであり、中国や朝鮮半島等の、アジアの他国では内部の情勢が不安定であったために、戦争を徹底的に省みる必要性がなかったというのです。そのため、政治組織は国際的な場では戦争に対する責任や反省に言及しながら、国民に対しては真逆の姿勢をとり続けたと石田は指摘します。

日本にとって戦争というものが被害者としての主体として語られがちなことについては、戦中におけるドイツと日本における、国民の生活の差にもあったとも言います。ドイツでは第一次世界大戦の反省から、国民の生活は最低限守るためにインフラが整えられていました。しかし日本ではそれは全国民による総力戦であり、国民は生活も物質も人も何もかもが搾取され、非常に貧しい状態にありました。こうした戦中における生活の記憶が、日本に加害者ではなく被害者としての自意識を芽生えさせたと言うのです。

近年、日本は中国や朝鮮半島と不安定な関係にあります。それがなぜ戦後半世紀も経過してから巻き起こったかと言うと、アジアが裕福に、国家的に安定化してきたからです。今後、日本国内の高齢化と経済の低迷、アジア各国の経済成長によって、日本も他のアジアの国とより密接な関係を結ばざるを得ない状況になっています。日本の戦争理解は、半世紀経った今改めて問われているのかも知れません。

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