ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体: ナショナリズムの起源と流行』 - Fuwafuwa's memorandum

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ベネディクト・アンダーソン『定本 想像の共同体: ナショナリズムの起源と流行』

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)
ベネディクト・アンダーソン 白石隆 白石さや

書籍工房早山 2007-07-31
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「ドイツ人よ、国民になろうとは無茶なこと」

前述のように語ったのは18世紀ドイツの詩人ゲーテでした。当時のドイツは宗教改革の内でももっとも悲惨だと言われた30年戦争を終えたばかりで、帝国とは言っても内部は300以上の小国に分かれており、統治も民族も言語もてんでバラバラであり、一つの国とは呼べないような状態にありました。

国民のほとんどを占める農民は非常に貧しく、中世から続く古ゲルマンの伝統を継ぐ賤民職業への差別はより厳しくなり、貴族は不安にかられ教養主義に走るもそれが経済には結びつき難い時代でした。そのような厳しい状態にあって、そもそも国民になろうなどとは無理なのだから、自己を深く内省することにより自由な人間になろう、これならできるだろう…ということです。

私たちは多くの場面において、国民というものを、性別や年齢のように、誰もが必ずどこかに帰属しており、かつそうでなければならないものとして受け止めています。ところが冒頭のゲーテのセリフに出くわした時、私たちが当然と受け止めるナショナルなものという概念が、極めて近代的であり、その上定義することがほとんど不可能であるということに気付かされます。

アーネスト・ゲルナーは「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではなく、国民の発明である」とし、その欺瞞を解こうとします。ゲルナーはナショナリズムを捏造と捉えることによって、それとはまた別にある真実の共同体の可能性を導こうとします。しかし真実の共同体とは一体如何なるものだと言うのでしょうか。如何に小さな国と言えど、私たちが生きて死ぬまでに会うことのできる人間の数など知れているでしょう。

ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』において、国民とはすべて私たちの想像の共同体であるとしました。アンダーソンの議論は明瞭であり、国民というものが言語と宗教からなる共同体と相似するものであるとしながらも、その因果についての言及は避け、特に非ヨーロッパ圏におけるナショナリズムの事例を引くことに注力します。事例は実に多彩であり、一口にナショナリズムと呼び習わされるものが、時と場所によってまるで異なる形で表出することが分かります。

特に私が気に入ったのが、20世紀における西欧膨張主義の中、大国の植民地政策を恐れたアジアの国――特に日本とシャムにおける政策の対比です。

日本は西欧圏に対抗するためにアジア国からなる大東亜圏を構想しましたが、それは日本をヒエラルキーのトップに据えたものあり、他国を二流国民と見なす体制でした。朝鮮半島と中国の一部を併合し、日本の言語と文化を強制しましたが、他方でそれらの国の人々が日本本土に渡ることは禁じられています。

他方英領マラヤ、ビルマ、仏領インドシナに挟まれたシャムは、日本やその他の多くの国がそうであったように、軍事や教育を強化することはしませんでした。

シャムに長らく君臨したチュラロンコンが参考にしたのは連合国やドイツではなく、植民地官僚国家であり、王国政府を合理化、中央集権化し自国をやや植民地風に統治することでした。チュラロンコンは他国から政治的に無力な若者を労働力として大量に流入させ大規模なインフラ整備、経済開発を行なっています。息子のワチラウットは中国人の血を強くひいていましたが、彼がナショナリズムの標的にしたのは自国で増えすぎた移民の中国人でした。

ナショナリズムはその表出も動機も多種多様であり、ほとんど共通点などないような事象が、しかし私たちの帰属と運命を決定づけるかのように君臨しています。国民として想像され、そして共同体であること、それ以外を定義しようとするならばほとんど支離滅裂とならざるを得ないこと、なおかつそれは私たちのアイデンティティに深く根ざしており、時に人はそのために自ら命を投げ出しさえします。

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