Fuwafuwa's memorandum

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伊藤邦武『物語 哲学の歴史: 自分と世界を考えるために』

物語 哲学の歴史 - 自分と世界を考えるために (中公新書)物語 哲学の歴史 - 自分と世界を考えるために (中公新書)
伊藤 邦武

中央公論新社 2012-10-24
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たまにはこういうのも良いかと思い哲学の本を読んだ。

イデアを唱え目には見えないものに真実を見たプラトンと、目に見えるものに真実を見ようとするアリストテレスの対比。紀元前から人間の考えるようなことにも推論の作法にもそれほど違いがないのは面白い。今では科学の中心に据えられている数学も、元を辿れば真理に辿り着きたいという欲望が発展を駆動させたのであり、歴史を振り返れば哲学と数学というものが密接な関係にあったことがわかる。

神の存在を否定し人間の存在を客観的に評価しようとした時、そこに思考する魂といった神秘的な存在を仮定したのは、人間というものがこの世界においてただ一片の葦に過ぎないということに恐れ慄いたからなのだろう。人間は葦である、思考することのできる葦である、けれど動物や植物にも心があり、人間が一体特別な存在でないのなら、なぜこの辛く苦しい生を全うすることに意義があるのだろうか。

ここ100年ほどの哲学の歴史は生きることへの懐疑が中心になっていたようにも思う。

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理性の世界と通信の世界

GiddensとSuttonのSociologyをたまに読み進めているんですけどその中の科学としての社会学という項目からなかなか興味深い着眼点に至ったのでメモ。

これは分野を問わず、多くの場合近代科学とそれ以前の疑似科学、もしくは土着的なオカルトとが弁別される境目は17世紀に置かれる。近代科学の中心にいつも据えられてきた「probability」はその始まりから、主観的な信頼度としての確率と試行回数を重ねた際の頻度の傾向という両義性によってしばしば科学者を悩ませてきた。

Probability の語源は教会や聖職者への信頼性、信念にあるという。近代科学の土台の大部分が西洋世界で形成されたことを踏まえると、近代科学を支えるこの確率という概念が極めて宗教的な神秘主義の片面であることはなんら不思議ではない。神の創りたもうた世界は理性に充ちていているが、本来的に人間にはそれを知る事ができないので、偶然の中に真実を見るのである。それはある種の信仰でもある。

近代科学の歩みは不可知を知り偶然を支配することにあった。偶然の持つ宗教性を否定し確率に置換すること、しかし同時にこれは諮らずもルネサンス的な理性主義や素朴な決定論の延長にある。「黒い白鳥は存在しないとは言えない」といったポパー流の反証の作法は、決定論を否定しつつも実は強固に決定論的な世界観の内側で、偶然をいわば飼い慣らす試みであって、こうした試みは寧ろ崩れゆく決定論を維持するための最後の努力のようにも思える。

調度時代を前後してピアソンやフィッシャーが近代的な確率の科学の土台を形作っていたのだから、これはポパーがどうというよりはそういう時代の雰囲気のひとつだったのであろう。70年代にはファイヤアーベントが「とりあえず、なんでもやってみる」として、科学と非科学を予め振り分けて後者を見えない者とするあり方を否定する。

こうした所謂「科学」において称揚される硬直性への疑義というのはファイヤアーベントの前から存在しているもので、特に実学においては信仰めいた理性よりも「実用的であること」「便利であること」がなにより重視された。戦後における特に有名で刺激的な議論で言えばノーバート・ウィーナーのサイバネティクスがある。

サイバネティクスで重視されるのは物事の原理ではなく、通信しそして制御することである。後にサイバーの語源となるサイバネティクスは「海原の中、舵を取る人」という意味であり、アクション・フィードバック・改善・フィードバック・改善という終わりのないサイクルそのものに目的を置いた徹底してプラクティカルな概念である。この未来的で一際先進的な情報通信の分野が、いわゆる近代科学とは出自を異にしていることはなかなかに示唆的で興味深い。

因みにSociologyの中で上記のような議論がされていたわけではない。単にコントとポパーとファイヤアーベントが縦に並べられていておもしろいなあと思っただけです。

SociologySociology
Anthony Giddens Philip W. Sutton

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佐伯啓思『20世紀とは何だったのか:西洋の没落とグローバリズム』

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ソクラテスはイデアの概念を洞窟の壁に映る影絵で例えました。私たちは洞窟の壁に縛り付けられており、松明に照らされた影絵でしか世界を判別することはできないのですが、真理は洞窟の外に存在しているのです。この真理は、真理であると同時に善、そして美でもあります。古代ギリシャでは真善美は一体のものと見なされたのであり、この例えによると、私たちは真理を知るためには影絵に目を凝らすしかありません。

しかし長い長い宗教戦争の果てに、やがて真は善と美から分離し、人は真を追求することで科学と技術を発展させるようになります。そこでは善あるいは美は真を歪めるものとすら見なされ、徹底的に切り離されます。

善から切り離されるということはそこから目的が失われるということです。美から切り離されるということはそこから統一が失われるということです。ニーチェによると、道徳が失われることによって世界は無価値化され目的と統一が消失するだけでなく、そこには最早真理すら見出されなくなるとしました。人間中心的な物の見方は、ただ物事から価値を奪い並列にするだけでなく、その背後に存在する真理すら信頼に値しないものにせしめてしまいます。

科学革命以降の人間中心主義に基づくこのような空虚な世界観を支配したのは、それに代わる宗教や道徳ではなく、経済における大量消費主義でした。金銭はやがて金や銀のような物質的な価値からも分離し、目的のために消費するのではなく消費することそのものが目的に変わっていきます。そこで消費と欲望はマニュアル化され、消費によってその人物の社会的地位が表象されるようになります。

消費を支える労働もまた、価値や意味から切り離され、技術化され、没個人化し、普遍化されます。普遍であるが故に技術主義は経済を飛躍的に発展させますが、同時に個人から故郷を剥ぎ取ります。そこでは最早真も善も美も問われることがありません。佐伯はこのような状態を、置かれている個人が最早ニヒリズムを自覚することすらない究極的なニヒリズムとしています。

佐伯啓思『20世紀とは何だったのか:西洋の没落とグローバリズム』は、西洋から発した諸概念がグローバル化と共に形骸化し、現代がいかにニヒリズムの状態に陥ってきたか、陥らざるを得なかったのかを議論したものであり、前著『西欧近代を問い直す』の後編となります。普遍化された技術主義は文化から文脈を奪い、個人から故郷を喪失させ、代わりにマニュアル化された欲望でそれを代替してきました。

民主主義、資本主義、技術主義、個人主義、それらの概念を私たちは現在、当然のように受け入れていますが、実はこれは真善美が失われた空虚なものであり、私たちはそれにもっと懐疑的である必要があるのではないか、ということが、2冊を通じて問われています。

解説でも言及されているように、2冊とも参考文献の数が少ないにも関わらず、非常に迫力のある議論となっています。通常ならば、哲学、社会学、経済学、政治学等分離するであろうところを敢えて広く取り扱い、近現代について私たちはどう理解することができるのだろうかということも示しています。

本書の元となるのは京都大学で講義された現代文明総論であり、後編の『20世紀とは何だったのか』には附論として『「近代の超克」という試み:京都大学最終講義』が収録されています。この本の構成は、トピックが多岐に渡るにも関わらず大変よく練られていまして、附論では真善美が切り離された現代において、あえて戦前に議論された日本的なものを参照しつつ、日本文化の中で西洋的なものに代わる新しい価値を見出そうとします。

古代ギリシャでは真なるものは善であり美でもありました。それらを切り離した時、技術は人間にあらゆる可能性を開きました。しかしその代わり人間が人間的であることそのものを問うことが軽視されてきたようにも思えてなりません。真なるものや善なるものや美なるものは必ずしも数値化できません。しかし数値化できないことがそれを問う価値を否定するに足る理由でしょうか。

矢野久美子『ハンナ・アーレント:「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』

ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 (中公新書)
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『全体主義の起源』や『人間の条件』といった著作で有名なアーレントは、今や20世紀における哲人の一人に数えられていますが、当人は自伝を残さず、また著作も難解であるために、80年代にブルーエルが伝記を書くまで長らく謎めいた存在でもありました。

矢野久美子『ハンナ・アーレント:「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』は、アーレントの少女時代から晩年までを、その思想の変遷と対比させながらまとめた、小さいながらも非常に丁寧な一冊です。

20世紀初頭ドイツ、リンデンにユダヤ人中産階級の娘として生まれたアーレントは、ドイツ語に加えフランス語にも精通し、特にギリシャ語の詩を愛する少女時代を過ごします。ユダヤ人ですがユダヤ教徒ではなく、シナゴーグにもキリスト教の教会にも出入りし、ユダヤ人とも非ユダヤ人とも親交を持っていました。

若干22歳で博士号を取得した後結婚しますが、1932年の選挙でナチ党が第1党となり世の風向きは一気に変わります。公務員職からユダヤ人や反体制派が排除される一方、ナチ党に入党した研究者には役職が与えられました。出世した中にはアーレントのかつての恋人であり先生でもあるハイデガーもいました。

アーレントは不当逮捕により人々が強制収容所に連行されるのを目の当たりにし、抵抗運動に協力したが為に逮捕されますが、運良く出獄し翌年フランスに亡命します。しかしそのフランスではドイツ人として囚人となり、フランスがドイツに降伏した後にはユダヤ人としてそのまま捕らえられます。

アーレントは機を逃さずフランス降伏後の混乱時に釈放書を偽装し脱獄します。脱獄後、無国籍状態で生活しますが、その後アメリカに亡命することで第二次世界大戦におけるナチの虐殺の難を逃れました。

すべてが綱渡りの曲芸であり、ドイツから亡命しなければ、フランスで脱獄しなければ、無国籍でなければ、ただちに捕らえられ収容所へと移送されていたでしょう。

(師匠ヤスパースは妻がユダヤ人であり、本人もナチに抵抗したため国賊として収容所の移送が決定していましたが、その直前にドイツが降伏したために生き残りました)

ここまでも極めて波乱に満ちた人生ですが、アーレントの言論人としての闘いは寧ろアメリカ亡命後に始まったと言えます。

ドイツ降伏前夜、ナチの「殺戮センター」の噂について、アーレントは他の多くの知識人がそうであったように、その存在を信じなかったといいます。「殺戮センター」はただ大量殺戮を目的とした、なんの必要性もないものだったからです。

戦後、ナチの強制収容所の実態が明らかになる中で、あたかも工場のように合理的に人を殺すためだけの施設の存在は、それがただ国家的犯罪であるというだけでなく、ドイツそのものの民族や伝統がひっくり返されるものでもありました。亡命した人々の中にはドイツの文化そのものを忌むべきものとし、母語としてのドイツ語すら捨ててしまった人もいるといいます。

何故このような起こるべきでないことが起こってしまったのかが議論される中で執筆されたのが、近代においてあらゆる人を「余計者」とし個性や責任、人間の尊厳を剝奪した『全体主義の起源』であり、その非人間性を回避するための『人間の条件』でした。

(アーレントは『全体主義の起源』を「起源」ではなく「要素」とするべきだったと後に後悔しています。全体主義は必然ではなくあくまで諸要素が折り重なった時に偶発的に起こったことを強調したかったのかも知れません)

それらを代表し、その他エッセイ集やコラムによってアーレントは名声を手にしますが、更に彼女を「有名」にしたのは、大量殺戮の責任者であるアイヒマンの裁判を記録した『イェルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについての報告』の連載であり、この文書のためにアーレントは数年間に渡って厳しい非難に晒されます。

アーレントは裁判を「正義よりも反ユダヤ主義のストーリーが展開された」と批判し、ドイツ国内の抵抗運動を「ユダヤ人のためではなく戦争を回避したかっただけ」と切り捨て、ユダヤ評議会のナチへの協力を指摘し、大量殺戮の責任者アイヒマンを「悪へ抵抗するための思考をすることすらできない凡庸な男」と表現しました。

(この報告は、権威の甘い蜜に弱く、容易に大義名分に屈し悪をなす、人間の凡庸さ、陳腐さを証明した、ミルグラムの電撃実験やスタンフォード監獄実験にインスピレーションを与えてもおり、第二次世界大戦後のまさに「民主主義という名の全体主義」の世界観の中において、非常に重要な報告でした)

アーレントは第二次世界大戦中に亡命し、殺戮の現場を見なかった自分自身の正義のためにこれを刊行しました。一部では熱烈な支持を得てアカデミアで活躍することになりますが、これによって非常に親しかったユダヤ人の友人の殆どを失います。

アーレントはユダヤ人としてのアイデンティティを亡くなるまで大事にしましたが、いかなる学派、組織、集団にも所属せず、批判を浴びても自分の正義を通しました。私的な人間関係の温もりを公に適応した時、それは全体主義のような同調圧力を生じさせると批判し、重要なのは複数の視点からの事実のリアリティであるとしたアーレントには、思考と言論をやめることはできなかったのかも知れません。

アーレントは生涯思想を体現した勇ましい言論人ですが、それは実は誰よりも人と人との繋がりを信じていたからなのかも知れません。アーレントの原点とも言える、隣人愛について論述した博士論文『アウグスティヌスの愛の概念』は今でも読み継がれています。

こちらも参考に。

全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義
全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義ハナ・アーレント 大久保 和郎 ハンナ アーレント Hannah Arendt

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イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告ハンナ・アーレント 大久保 和郎

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アウグスティヌスの愛の概念
アウグスティヌスの愛の概念ハンナ アーレント Hannah Arendt

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イアン・ハッキング『偶然を飼いならす: 統計学と第二次科学革命』

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『この世に偶然は存在せず、すべては必然である』これは世界を理性が支配していた中近世における典型的な決定論を非常によく現したフレーズです。曰く、この世の全て――人間の社会活動を含む――は天体が回転するのと同じように、宇宙の法則に従って規則正しく活動しているというのですが、現代では科学を支配しているのは必然ではなく偶然であり、上記のようなフレーズはむしろ、占いやスピリチュアルな場で好んで用いられるようです。

イアン・ハッキング『偶然を飼いならす: 統計学と第二次科学革命』は、19世紀以降の<印刷された数字の洪水>が徐々に<決定論を侵食>していった様を叙述的に書き上げた労作です。ハッキングがここで行おうとしたのは、「偶然」という不明瞭な概念を私たちが如何に所与のものと捉えるようになったのかを現代から逆算することであり、本書で大きく取り上げられるのは統計学における偉人ではなく、むしろ偶然の概念化に貢献してきたあらゆる種類の人々――科学者、哲学者、官僚、革命家、作家――です。

19世紀、それまでは人口集計が主たる目的であった統計が、犯罪、自殺、結婚といったあらゆるコトモノに適応され、公に印刷、出版されるようになりました。それを見た人が「不思議なことに、毎年一定の数だけこれらのことが起こっている。ここには法則が存在している」と考えるようになるまでに時間は必要ではありませんでした。人は原因を同定・あるいは推察、そして予知・予測しようとしました。

予知・予測の試みが刺激したのは、人間と社会をあるべき姿に管理し統制しようとする欲望そのものでもあります。管理と統制の欲望は衛生状態を改善するために汚水を整備し、極貧階級の規模を<数え上げ>、自殺者の数と理由と方法を記録しました。このような側面から見ると、統計への熱狂が、当時の功利主義や福祉国家主義、社会主義、優生学といった左右あらゆる思想・活動に多大なる影響を与えていたことがわかります。

<数え上げ>はそれそのものが概念を規定するものでもあります。私たちが「淑女」を数え上げようとする時、私たちは「淑女」が誰なのかを定義しなければなりません。このようなカテゴライズの過程においてより強化されていったのは、平均や代表といった観念であり、平均や代表がいるからには、そこには正常と異常、適応と逸脱が存在することになります。やがて紙上の数値のリアリティはリアルに置き換えられます。

19世紀半ば、天文学者ケトレーがガウスの誤差曲線を人体の測定に援用し、集団において値が正規分布していることを「発見」します。19世紀後半には人間や社会の科学が物理学と切り離され、そこに固有の正常状態の概念が導入され、人間・社会をケトレーがそうしたのと似た方法で測定する下地が用意されます。20世紀初頭にかけて相関の概念が決定論的な因果の概念に置き換わり、統計学的な推論の土台が形作られました。

当初、総体における数字によって人間の運命が定められるのであれば、統計的思考は人間の自由意志の否定ではないかということでしばしば論争になりましたが、<偶然の飼い慣らし>の過程で議論はいつしか反転し、偶然と未来の予測不可能性こそが人間の自由意志の証左と見なされるようになりました。

(少々脱線しますが統計的運命論に関する論争は珍しくなかったようで、例えば犯罪を『野蛮な先祖返り』としたイタリアの精神科医ロンブローゾの生来的犯罪人説がそれであり、日本ではこれを題材にしたミステリ小説が1930年代に夢野久作によって発表されています。生来的犯罪人説は今では「当時から批判が絶えなかった」と解釈されており、それは事実ではあるようなのですが、『偶然を飼いならす』では国際犯罪人類学会においてフランスの環境学派に熾烈に批判され、怒ったイタリア学派が第3回ブリュッセルでの学会をボイコットしたことが、フランス学派によって「生来的犯罪説のような悪辣な学説が撲滅された」と書かれた、とされており、この辺りのやりあいの生々しさはかなり面白いですね。また、ロンブローゾの娘ジーナが父の意志を受け継ぎ「犯罪者にかくあるべき教育を施すべき」と刑法に多大な影響な与えたことも有名であり、日本の刑法も単なる懲罰だけでなく更生に重点が置かれていますね)

本書は偶然の概念化を記述しようとしたものであり、勿論これが真であるということは不明のままです。語るのは人であり歴史は語らない(と、太郎丸博先生は仰っていました)、ハッキングは明らかに自覚的な語り部であり、本書は膨大な資料のもとに執筆された科学哲学の本でありながら、叙述的であり枠物語を読んでいるかのような感覚すらあります。

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