Fuwafuwa's memorandum

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ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱
ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱ジュディス バトラー Judith Butler

青土社 1999-03
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南アフリカ出身のキャスター・セメンヤ氏は昨年のリオ・オリンピック女子800mで金メダルを獲得しました。その際イギリス代表のリンゼイ・シャープ氏がこのレースについて「男みたいな人と競争するのは本当につらかった」とコメントし、物議を醸しました。彼女のコメントが、女性として生活し、女性であると自認するセメンヤ氏が、卵巣の代わりに精巣を持つインターセックスであることを指していることは明らかだったからです。

ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル:フェミニズムとアイデンティティの攪乱』は、従来の女性を一面的に概念化しようとするフェミニズムを批判し、ジェンダー/セックスの単純な二分法に異議を唱えます。バトラーは、一般的に文化的なものと見なされるジェンダーのみならず、生物的なものと見なされるセックスすら権力による恣意的なカテゴライズであるとするのです。

これは俄かには受け入れがたい主張でありますが、冒頭のセメンヤ氏のような存在が現れる時、(性の自認と他認の一致する、異性愛者の)私たちが日頃、素朴に当然のものと受け止めているセックスの概念は攪乱されざるを得ません。社会的に構築されたジェンダーを揺るがす存在、それこそがバトラーの言う「ジェンダー・トラブル」です。

シャープ氏は次のようにもコメントします。「ルールが変わってしまった」昨年7月以前には、テストステロン値の高い女性選手はホルモンを抑制するよう薬を打たなければなりませんでした。オリンピックにおいて性別の問題は常に運営を困らせるものでした。そこでは時に出産経験のある人間すら女性とは見なされませんでした。

ホルモン・生殖器・染色体・男性/女性の自認と他認・異性愛的な性の指向、いくつの条件を満たせば私たちは性を主張することができるのでしょうか。権力に私たちのセックスを認めさせるために、時には身体的な改造まで行わなければならないと言うのであれば、そこにジェンダーとの明確な線引きが前-言説的に存在していると本当に言えるのでしょうか。

バトラーは最も著名なフェミニズムの研究者の一人ですが、その著作が難解であることでも有名です。ラカンのような分析人に強く影響を受ける論調には、しばしば文学趣味に過ぎる印象を受けます。しかし、本書が執筆された1990年以前のフェミニズムが前提としていた硬直化した家父長制概念、硬直化した女性概念を背景として踏まえて読むと、バトラーが極めて現実的な問題意識の上でジェンダーを概念化していることがより明快になります。

バトラーの議論はセクシュアリティにも及びます。礼儀正しい論客であるはずのバトラーはしかし、レズビアンを性的欲求からは隔絶された文学的な表象としてしか捉えようとしないラカンやリヴィエールの議論を、時々冷ややかに引用します。本書はあくまで第三者的な視点で展開されますが、バトラー自身がレズビアンであることを公言していることを踏まえると、バトラーの理論家としての顔とは異なるもう一つの顔――権力に抗う解放運動家としてのバトラー――が見えてきます。

本書の放つメッセージはあまりにも強力でしたので、フェミニズムを越え、その後のあらゆる解放運動に影響を与えました。本書は、解放運動そのものが権力の隠蔽とマイノリティの抑圧に加担してきたことの告発であり、自らを不可視化されることへの抵抗です。バトラー自身がジェンダー・トラブルのひとつの例示であり、本書自体が個人的な性を取り戻すためのパフォーマティブな攪乱であると言えます。

Ghassan Hage『White Nation: Fantasies of White supremacy in a multicultural society』

White Nation: Fantasies of White Supremacy in a Multicultural Society
White Nation: Fantasies of White Supremacy in a Multicultural SocietyGhassan Hage

Routledge 2000-10-26
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『はじめにナチスが社会主義者を攻撃した時、私は何もしなかった。次にユダヤ人が牢屋に入れられた時、私は何もしなかった。私は社会主義者でもユダヤ人でもなかった。その次に攻撃されたのは教会であり、私は牧師であったので、そこではじめて抵抗を試みた。でも既に遅かった。私に手を差し伸べてくれる者はただの一人も残っていなかった』

牧師であるニューメラーのスピーチは、時に言及される迫害の対象を、共産主義者やエホバの証人、学校に入れ替えられながら、あらゆる人、場所で引用され続けてきました。そのメッセージはシンプルで普遍的なものです。私には関係のないこととして排除を容認し続けた結果、いずれは他でもない私自身が排除の対象となるということです。

Ghassan Hageの『White Nation: Fantasies of White supremacy in a multicultural society』は、多民族、多文化が複雑に交錯するオーストラリア社会における排除、そしてその背後に存在する白人至上主義を暴いた一冊です。

一般的に、レイシズムと聞いてすぐさま想起されるものは、特定の人種を劣った存在かのように見なし、身体的、精神的、制度的に相手を傷つける、偏見に基づいた暴力です。ムスリムの女性が纏ったスカーフ(しばしばそれが彼女らにとってはごく普通の格好)を無理やり剥ぎ取る行為はレイシストによる暴力と見なせるでしょう。

しかしHageは、スカーフを剥ぎ取った人物が、ムスリムを劣った存在と表現するよりはむしろ”多すぎる”と表したことに注目します。これはオーストラリアに限らず普遍な表現です。彼らが言うところには「私は彼らの文化を尊重するし、友達もいる。あの国にいったこともある。あの国はとてもいい国だ。でもとにかく、今この国には”多すぎる”んだ」ということなのです。つまりこれはレイシストではなく、ナショナリストの行いであり、スカーフを剥ぎ取る手はネイションを選定する手そのものなのです。

ムスリムのスカーフを剥ぎ取るのが「悪いナショナリスト」であるなら、移民政策に賛成し、然るべき保護と待遇を訴えるのは「良いナショナリスト」でしょうか。Hageは一冊の絵本を引用しながら、これにも異論を唱えます。――料理を作っていた夫婦のもとに様々な民族・宗教・人種の人々がやってくる。人々はその人の文化独自の食材を持ってくる。夫はその食材を取り入れて、料理はもっとおいしくなった――様々な食材により料理はおいしくなりますが、その食材を選定し、調理するのは、あくまでも金髪で青い目の白人男性なのです。

「良いナショナリスト」と「悪いナショナリスト」は一見正反対のようでありながら、どちらも自分こそがネイションの選定者として君臨していることに変わりはなく、両者はふとしたきっかけで簡単に反転します。それは個人の閾値の問題であって、良いナショナリストにとって「彼らが”多すぎる”」として認識されれば、食材を鍋に放り込んでいた手はそのままムスリムのスカーフを剥ぎ取る手になるのです。

Hageの議論が鮮やかであるのは、一見身体的な特徴である『白人性』そのものがファンタジーであり、相対性に基づいた虚構に過ぎないことを暴くからです。仮にオーストラリアから有色人種を追い出したら何が起こるか。それは「私の方が”彼ら”より白人である」という、白人の中での更なる白人性の選定に他なりません。これはネイションの自治権を自分こそが持っていることを証明するための行いなので、何度でも同じことが繰り返されるだけです。

もちろん白人性はアナロジーでもあるので、これと同様のことはありとあらゆる状況で起こり得ます。生活保護受給者、犯罪者、社会主義者、同性愛者、知的・身体的障害者、対象は永久に入れ替わり続けます。入れ替わるからこそ、誰もがその対象になり得ます。ニューメラーは「その時には既に遅かった」と言いました。多くの場合、これはネガティブなものとして解釈されるかも知れません。しかし私はこれに、その時になる前に抵抗することができるはずだという信念を強く感じます。

ガッサン・ハージ『希望の分配メカニズム: パラノイア・ナショナリズム批判』

希望の分配メカニズム―パラノイア・ナショナリズム批判
希望の分配メカニズム―パラノイア・ナショナリズム批判ガッサン ハージ Ghassan Hage

御茶の水書房 2008-02
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共産主義政党の強力な融和政策により長く安定の時代を過ごしたユーゴスラビアでは、1990年代に民主化の過程で各国の独立に向けた凄惨な紛争がおよそ10年に渡り続きました。この血生臭い歴史は「ネイションとは何か」という古い問いを刷新しました。この独立に伴う紛争は、一見融和していたかに見えたネイションの中においてさえ、各々の民族グループで異なるナショナル・アイデンティティが育まれており、そのために人は時に血を流すことさえ辞さないのだ、ということを改めて突きつけたのです。

1992年、およそ200年前に起こったオーストラリアの植民化において先住民族の土地が入植者によって暴力的に強奪された”事実”を最高裁が認め、これを「わが国の名誉を著しく損ねる暗黒の歴史」とし「このような不正義を認め、改める責任がある」と言及しました。

リベラルを自認する多くの知識人階級は判事のコメントを肯定するでしょう。けれどこれを是とするのであれば、私たちは”当然”、冒頭の問いに即答できなければなりません。即ち「ネイションとは何か」という問いです。

ジョン・ロックは責任について「自己同一化に伴うもの」としましたが、ネイションへの自己同一化は私たちが日頃自覚する以上に価値観や行動様式を規定します。それはW杯で自国のサッカー選手が活躍すると嬉しいといった、ごく素朴な形で表出します。しかしナショナル・アイデンティティはただ外側から規定されるだけのものではありません。客観的にはネイションが存在していない状態でさえ私たちはそれを育むことができるのです。

「オーストラリア人は先住民族に謝罪しその責任を負うべし」という主張は、多くの場合において、それを主張する人物の想像を遥かに超える複雑さを持ちます。オーストラリア人には、まさに先住民族を蹂躙した植民者の子孫もいれば、その後移民として来た人もおり、囚人として連れてこられた人もいます。何より「オーストラリア人」には入植者によって蹂躙されたまさに先住民族の子孫も内包されており、上記の主張そのものが「オーストラリア人」の分断を招くものでもあります。

ガッサン・ハージの『希望の分配メカニズム: パラノイア・ナショナリズム批判』は多文化共生を標榜するオーストラリアが、外国人への非人道的な差別や排除が境界上で行われることへの是非がその”内側”で問われるという、すでに民主主義が侵された病理的な状態にあることを告発します。本書で扱うテーマは学問的である以上に政治的でありますし、科学的であるというには規範的です。

ハージはレバノン出身のシドニー大学人類学学部長(執筆時点)であり、移民であり知識人階級でもあります。また、移民であるからこそ、入植者/先住民族、においては第三者的な立場でもあります。本書を通じて浮き彫りになるのは、白人至上主義におけるマイノリティであり、想像性ゆえに孤独な知識人階級です。

本書で最も重要な概念は思いやり(caring)であり、グローバリゼーションの中、希望のないパラノイアには思いやりが失われていると主張されます。この思いやりは前述のネイションの自己同一化と重なるものです。すなわち、「オーストラリアが辿った記憶を自分のものとして受け止めること」が出来ているのなら、入植における暴力の記憶は「オーストラリア人」に穢れた感情を喚起させ、その名誉を取り戻すための措置をとらずにはいられないであろう、ということです。

ハージはこの思いやりが失われた状態のナショナリズムをパラノイア・ナショナリズムと呼び、これらは過剰な自己防衛による暴力性を喚起させ得るものとして批判します。その内容はユニークで、機知に富み、あらゆる逆説に満ちています。

教養という概念の元を辿ってみるとそれはやがて自省・自己批判に行き着くそうですが、批判が重要であるのはそれがあらゆるイマジネーションの源泉であるからです。イマジネーションは新事実を発見し、新しいものを発明し、あらゆる過剰さを抑制しもします。批判は今あるものをただ全面的に否定するだけではなく、本書のように「より良くあるためにはどのような方法があるだろうか」と問いかけてくれます。

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